今私はこの記事を、煎餅布団の中、全身を包む孤独にゆっくり侵食されながら書いている。
キーボードを使って手入力する気力も起きないので、音声入力で書いている。多少の誤字脱字は許してほしい。
さて。
特別何か事件があったわけではないが、とにかく私は人間が嫌いなのではなく恐ろしいと思っているのだと気付いた。
この恐れはそう、冬場ステンレス製のドアノブに手を伸ばすとき、むき出しの指先に、静電気が走らないかどうかと、無意識に警戒してしまう気持ちに似ている。所詮は静電気だ、死にはしない。けれども、予想できる痛みであっても不快なものは不快である。
物心ついた時からとっくに、人間に裏表のない純潔の優しさを求めるのが間違いだとわかっている。人は必ず何かを傷つける生き物で、人は不完全で、関わり合う中で避けられない摩擦と痛みが生まれるのを知っている。その痛みには多少目をつぶって、それでも関係を続けていくのを人間関係と呼び、果ては多少の事ではほつれない結びつきになるのだろうが、私はどうしてもいつか体を走る痛みを想像して手を引っ込めてしまうのだ。パブロフの犬のように、人間=痛み、そういう方程式が、私の中にくっきりと刻まれているのを感じる。
これはネガティブとか、そういう話ではない。学習性無気力に近いものだと思う。永遠と摩擦を起こされ続けて、私はすっかり帯電体質になってしまったのだ。
ねぇ、お母さん、あのそろばん教室、定規で私を殴ってくるから行きたくないの
私の時はムチだったんだから、我慢できるでしょ。
静電気。
ねぇ、あの子と友達なんでしょう。へー。
…………………うん。
静電気。
結婚してないの。
してないよ。
静電気。
みたいに。他の人からしたら、ピリッとしたかどうかも気づかないようなそんな刺激を常に感じて、1人で勝手に苦しんでいる。
それが嫌で、どこにも触れないように、手を後ろで組んで全てを遠巻きにするように立っている。
それで、摩擦さえなければ日々の生活に耐えられるのなら何の問題もないのだけれど、それでは耐えられないから、こうして苦しんでいるのだ。
関わりたいと思う。会話をしたいと思う人生を交わらせたいと思う。けれど、いつか来る痛みともしかしたら与えてるかもしれない痛みのことを思うと、情けないほどに全てが嫌になって、相手の欠点を探して、怒ったり、傷ついたふりをして、相手と自分の前にシャッターを下ろす理由ばかり探してしまう。
こんなにも痛みに弱い存在に生まれてきたのならば、せめて孤独には鈍感な生き物として生まれてきたかった。
ASDやADHDなどの発達障害を進化の過程で生まれた「絶滅しないために生まれた変異種」として捉えられていると言う話を聞いたことがあるが、おそらく私もそれの一部なのだと思う。万が一、天変地異が起きたときのために、人類にいろいろなレパートリーを作っておいて、そのうちの1種でも生き残ればいい。そう、あくまで予備であり、保険。いらなければゆっくりと滅びていくだけ。
しかし、こんな自己矛盾の塊みたいな存在に生まれてきたおかげで見ることができた世界と言うのも確かにある。孤独を愛する方法も孤独を愛しいと思う気持ちも確かに私の中にはある。
いつか自家中毒を起こして死んでしまいそうな気がする。けれども、その前にこの世界の片隅に存在する変異種のあなたに、私と言う人間がここにいたこと、私もあなたと同じ孤独を持っていたこと、私たちは隣り合わせの孤独の中で共に生きていたことを伝えられたらと願って止まない。